America's National Parks ~アメリカの国立公園を訪ねて~:2007年05月
Apostle Islands National Lakeshore
Voyageurs National Park
Isle Royale National Park
Grand Portage National Monument
Saint Croix National Scenic Riverway
Effigy Mounds National Monument
Herbert Hoover National Historic Site
Lincoln Home National Historic Site
Jefferson National Expansion Memorial
Harry S. Truman National Historic Site
ウィスコンシン州の北端のスペリオール湖にいくつかの島々が浮かんでいる。17世紀にこの地方を訪れたフランス人宣教師は、12の島を数えることができたことから、キリストの12人の使徒(apostle)にちなんで、Apsotle Islands(アポスル・アイランド:使徒諸島)と名づけた。しかし、実は実際には22の島々から構成されており、そのうち21の島々が、国立公園局の管理下に置かれ、Apostle Islands National Lakeshore(アポスル諸島国立湖岸)を形成している。
スペリオール湖は、その水深が最も深いところで1,402フィート(427m)と深いため、その水の色は非常に深い青色に見える。深い青色の水辺に緑色の島が浮かんでおり、そのコントラストが晴れた日には美しく見えることから、アポスル諸島は"Jewel of the Superior"(スペリオール湖の宝石)と呼ばれることがある。
6億年ほど前に堆積した砂岩を氷河が削り、カラフルな崖、浸食による形成された洞窟や長く伸びた砂浜などで湖岸は形成されており、湖から眺める景色を豊かなものとしている。この辺りの森林は、樫、松、ヘムロック、カエデなどのハードウッドの北限となっている。
この地では様々な産業が移り変わっていった。17世紀から19世紀はじめまでは毛皮とりわけビーバーの毛皮の重要な交易ルートとなっていた。1830年代には、アメリカ毛皮会社は、この地に漁業基地を設け、スペリオール湖における漁業に投資をしたが、1837年の恐慌で失敗に終わっている。Manitou Island(マニトウ島)には漁師のキャンプが復元されている。次には、湖岸の砂岩が注目を集め、19世紀後半には、多くの石切り場ができ、シカゴ、ミルウォーキー、デトロイトなどの中西部の都市の発展に寄与した。Basswood Island(バスウッド島)、Hermit Island(ハーミット島)、Stockton Island(ストックトン島)には石切り場の跡が残されている。20世紀に入り周辺の人口増は、木材需要を増加させ、アポスル諸島の木々は伐採され、出荷された。木材が伐採された島は、鹿やビーバーの繁殖場となり、現在では再び森林が戻ってきている。
これらの島々に色取りを添えているのが、灯台である。22の島のうち6の島(Long, Outer, Raspberry, Devils, Michigan, Sandの各島)に8つの灯台が建てられており、国立公園のユニットの中では最も灯台が集中している地区となっている。 いずれも19世紀に航海の安全のため建てられたもので、クラシックなデザインが人気を集めている。それぞれの灯台は、ここで見ることができる。
アポスル諸島を見て回るには、対岸のBayfield(ベイフィールド)の町からクルーズ・ツアーが出ているので、これに参加するといいだろう。私達も、ラズベリー島にあるかわいらしい灯台を見学に行った。クルーズに参加すると、灯台のほかに、Devils Island(デビルズ島)の洞窟、Honeymoon Rock(ハネムーン岩)などの地形や石切り場を見ることもできる。 湖はとても大きく、対岸など見えないので、まるで海でクルーズをしているような感じだ。
このほか、ストックトン島にはブラックベアーが多数住んでいることで知られている。熊の密度は全米最大とも言われており、この小さな島に30頭ほどの熊が生息している。洞窟は、デビルズ島のものが有名だが、ベイフィールド半島のMeyers Beach(メイヤーズ・ビーチ)の先にも洞窟がつながっており、カヤックの絶好のコースとなっている。ストックトン島、バスウッド島やOak Island(オーク島)などはトレールが整備されており、キャンパーに親しまれている。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
アポスル諸島のきれいな写真は、ここやここで見ることができます。
ミネソタ州は、 "Land of 10,000 Lakes"(1万の湖のある土地)と言われ、針葉樹の森と無数にある湖沼で覆われている。明け方に車を走らせると、湖沼から水蒸気が立ち上がり、幻想的な風景を創り出している。氷河期の置き土産の1万の湖をところどころ見ながら車を北に走らせると、行き着くのが、ここVoyageurs National Park(ヴォイジャー国立公園)である。
ヴォイジャー国立公園は、30以上の湖が連なった国立公園で、18世紀に毛皮取引が盛んであった頃、ヴォイジャーたちの重要なカヌールートとなっていた場所である。ここには豊かな自然が残り、ヴォイジャーたちがカヌーを走らせていた頃の風景がそのまま残っている。
この辺りの風景は氷河期の影響を受けているため、ヴォイジャーの岩は、上層部にあっただろう堆積岩などは削り取られ、20億年前に海底で形成された古い地層がむき出しになったものである。
針葉樹の森を背景に、みさご、鷹、青サギなどの鳥が空を舞う。ここはアメリカの国鳥ボールド・イーグルが観察できる場所である。 私達も空を舞うボールド・イーグルを見ることができたが、どうせなら望遠レンズを用意してカメラに収めよう。私達は小さいカメラしかもっていなかったので、残念な思いをした。この他にもカワセミ、カモ、ウ、ルーンなどの水鳥も豊富で、バードウォッチャには貴重な場所となっている。動物ではムース、鹿、ブラックベアー、ビーバーなどのほか、48州では珍しい狼が生息している。狼は、通常2-12匹の群れで行動し、ムースや鹿などの大型動物を攻撃することもあるが、ここでは主にビーバーをえさにしているようだ。狼は行動範囲が広く、時速50km前後で走り、一晩で60kmをカバーすることもある。慎重で用心深い性格のため、なかなかお目にかかることはできない。
ヴォイジャーの楽しみ方は、船に乗るに限る。いく� �かのレンジャーが引率するツアーが出ているので、それに参加して見よう。ビーバーのダムがいくつか見られるかもしれない。ヴォイジャー国立公園からは、カナダの国境はすぐそばである。ここがカナダの国境だというサインがあるところまで連れて行ってもらったが、周りの自然を見ると、人為的な線を引いているに過ぎない感じがする。Kettle Falls(ケトル・フォールズ)というところでは、アメリカにいながらにしてカナダを南に見ることができ、おもしろい。しかし、本当に楽しむのであれば、カヌーやカヤックにのって、昔のヴォイジャーさながらに、湖を縦横無尽に走り抜けるのであろう。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
ヴォイジャー国立公園のきれいな写真は、ここで見ることができます。
アイル・ロワイヤル島はスペリオール湖よりも歴史が古く、12億年前にこの地方からカンサスに到るまで地表が割け、その地割れの部分から溶岩が吹き出て地表を覆った。溶岩による火成岩は左右から押されてU字型に歪み、しわを形成した。その上を堆� �岩が覆うが、氷河期には氷河に削られ、氷河期が終了し、五大湖ができると氷河に研がれた太古の峰が島となった。
この島では古くから銅が取れることが知られており、今から4,000年前に原住民が銅を採掘した跡が発見されている。1671年にフランス人の毛皮商がこの島をアイル・ロワイヤルと名づけ、アメリカ独立の際にアメリカ領に組み込まれた。19世紀には銅の商業採掘が試みられたが、銅の保有率が低く、運送費用もかかるため、採算が取れず、いずれの試みも撤退に終わっている。
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アイル・ロワイヤルは、対岸から遠く離れているため、手付かずの原生林が残っており、野生動物も豊富だ。この島にはムースが住んでおり、私たちも浅瀬でこけを食むムースを目撃した。この島に住むムースは、20世紀初めにカナダから泳いで渡ってきたものらしい。カナダまで15マイル(24km)も離れており、ムースの水泳能力には驚かされる。対岸から離れ天敵もなく、この島でムースは増え続けた。やがて島の緑を食べつくし、大量に餓死し、また若葉が戻ると再び増え、また飢餓により激減するサイクルが繰り返された。それは、1949年を境に変わる。1948-49年の冬にカナダから凍ったスペリオール湖の氷を伝って、狼がアイル・ロワイヤルに移り住んだ� ��それ以降、ムースの個体数がバランスするようになったという。アイル・ロワイヤル国立公園は、48州でも珍しい狼の生息地である。この他、ビーバー、きつね、うさぎなどが住んでいるが、熊や鹿はいないという。不思議なものである。
鱒類などの魚も豊富で、古くはアメリカ毛皮会社がこの島に漁業基地を建て、毛皮商人たちへの重要な食料供給基地となった。島周辺の水域には虹鱒、brook trout、lake trout、northern pike、walleye、yellow perchといった魚がとれ、アングラーには評判の島らしい。
この島へのアクセスは基本的にフェリーに限られる。ミネソタ州のグランド・ポーテッジから島の西岸へ、ミシガン州のCopper Harbor(コッパー・ハーバー)、Houghton(ホートン)から島の東岸へフェリーが出ている。島内に道路はない。移動は徒歩に限られる。逆にこのことがバックパッカーが島に引き付けられる理由である。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
アイル・ロワイヤルのきれいな写真は、ここで見ることができます。
1年に一度、初夏にこのヴォイジャーたちとモントリオールからの仲買人が集まる場所があった。それが今回ご紹介するGrand Portage National Monument(グランド・ポーテッジ国立遺跡)である。ここには、ミネソタ州東岸のスペリオール湖に面した場所で、1784年から1803年までイギリス系毛皮会社Northwest Company(北西会社)の取引所が置かれた場所で、一大毛皮取引所として繁栄した。現在のミネソタ州とカナダ・オンタリオ州の境を形成するPigeon Riverがスペリオール湖に注ぎ込む河口付近は、流れが急になっており、いくつもの滝が点在することから、ヴォイジャーたちは、8マイル(13km)あまりをカヌー、貨物ともども陸送を余儀なくされた。この陸送はポーテッジと呼ばれ、長距離のポーテッジが必要であったことから、グランド・ポーテッジと呼ばれるようになった。ヴォイジャーたちのカヌーは、長さ25フィート(7.5m)で4-6名のヴォイジャーを載せた。モントリオールからの仲買人のカヌーは、これより10フィート(3m)ほど長く、車2台分の8,000ポンド(3,600kg)の貨物を載せることができたという。
北西会社は、ハドソン・ベイ会社の毛皮取引の独占を打ち破るため、1784年にSimon McTavish(サイモン・マクタヴィッシュ)らがモントリオールに設立した毛皮取引の会社で、ハドソン・ベイ会社とともに、アメリカ北部、カナダの毛皮取引の覇権を争った。毛皮取引は大いに成功し、その中心的な取引所であるグランド・ポーテッジも大いに栄えたが、1812年の英米戦争の結果、アメリカ北部の毛皮取引からは事実上締め出され、乱獲によるビーバーの激減などから、1821年に半ば強制的にライバルであるハドソン・ベイ会社と合併し、40年近くの営業を終了することになる。
グランド・ポーテッジは、1803年に北西会社がその取引を北に位置する現在のカナダ・オンタリオのFort William(フォート・ウィリアム)に移すまで、北西会社の中心的な取引所であった。メープルシロップの採取、漁業、毛皮取引などで生計を立てる地元のオジバ族と仲良く共存し、年に一度の取引のときには、共同でフェスティバルを催した。現在では、グランド・ポーテッジは、1797年当時の姿に再現され、柵で取り囲まれた敷地内には、大ホール、台所、倉庫、見張り塔、毛皮プレスなどが再建されている。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)PDFです。
セント・クロイ川の名称の由来には、いくつかの説がある。セント・クロイとは、聖なる十字架という意味であるが、フランス人の宣教師がミシシッピー川との合流地点付近で十字架を見たことにちなんで、川の堤防に十字架に似た岩があったことにちなんで、あるいは、クロイという名前の人物がこの川で溺死したことにちなんでなどの説があり、定説は定まっていない。ナメカゴンの方は、Chippewa(チッペワ)族の言葉でチョウザメのいる場所という意味とのこと。
この川には、かつては、多くのビーバーが生息しており、その周辺にはバッファローも豊富に生息したため、重要な毛皮の産地であった。毛皮商人にとっては、セント・クロイ川は、ミシシッピー川とスペリオール湖を結ぶ重要な交易ル� �トであった。Dakota(ダコタ)族が毛皮を捕り、チッペワ族がフランス人の毛皮商人との間を仲介するという役割分担だったが、ダコタ族とチッペワ族との蜜月関係が終わりを告げ、1770年ごろには戦闘状態となり一時毛皮の供給がストップする事態を生じた。この戦闘後、チッペワ族とダコタ族がセント・クロイ川の上流・下流を分け合うこととなる。1780年代以降には、イギリス(カナダ)のNorthwest Company(北西会社)がこの地域の毛皮獲得に乗り出し、以降この地域の取引を押えていく。1812年の英米戦争後は、アメリカ毛皮会社が参入し、良質な毛皮は乱獲により激減していく。これにより原住民の生活も狩猟中心から農業中心に移行せざるを得なくなり、1837年には連邦政府との条約で大半の土地を合衆国に譲渡せざるをえなくなった。
この頃には、ミシシッピー川流域の町が大きく成長し、毛皮に代わりセント・クロイ川上流の松林が重要な産物となった。林業が盛んになり、セント・クロイ川の流れを用いて木材を市場へと搬送するようになった、これにあわせて川には改良が施されるようになり、ビーバーは完全に姿を消した。この頃の小さなダムの跡は今でも随所で見ることができる。1880年代には松林も消滅し、スギや� �ガが主力になり、これらの樹木も含め1920年代には原生林はほとんど消滅してしまう。伐採された土地では農業が行われるようになり、原生林の後は農地として活用された。
夏には緑深い川岸の間をきれいな水が流れ、今ではウォーター・スポーツの人気の場所となっている。特にカヤック、カヌーは人気があり、流域にはいくつものレンタル・ショップやツアー・ショップが軒を重ねており、天気のよい日に川音を聞きながら、川と一体となって、自然に囲まれて川を下ると気持ちいいだろう。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)(PDF)
セント・クロイ川のきれいな写真は、ここやここで見ることができます。
トップ商用鑑定会社のテキサス
昔の話になるが、私の通っていた中学校は、古墳の上に校舎の一部が建っており、社会科教室に行くと学校を建てた当時は見向きもされなかった弥生式土器の破片などが展示されていた。教科書では、古墳は日本や韓国で見られると書いてあったような記憶があるが、アメリカでも古墳らしきものを見ることができる。
アイオワ州のミシシッピー川上流に古墳のように人工的に作られた塚がいくつも点在する場所がある。それがここEffigy Mounds National Monument(エフィジー・マウンズ国立遺跡)である。この場所がユニークなのは、ここには普通の丸い塚のほかに、長細い形をした塚、鉄アレイをくっつけたような形の塚、そして熊や鳥の形をした塚が見られることである。丸い形をした塚は、オハイオ川やミシシッピー川流域など、他の地域でも見ることができるが、動物の形をした塚は、ミシシッピー川上流域の、イリノイ州北部、ウィスコンシン州南部、アイオワ州北東部、ミネソタ州南西部の地域に限られる。
エフィジー・マウンズにある塚で丸い形をした塚は一番古いもので、3,000年前にさかのぼる。高さ2-10フィート(0.6-3m)、直径10-20フィート(3-6m)のものであり、主に埋葬用につくられたものと考えられている。ちょうど、日本の円墳のような存在だ。地理的に遠く離 れた場所でも同じような盛り土の墓が見られることは興味深い。長細い形をした塚は、高さ2-4フィート(0.6-1.2m)、幅6-8フィート(1.8-2.4m)、長さは100フィート(30m)に達する。これらは1,700-1,300年前につくられたと考えられている。また、円墳と細長い塚をつなぎあわせたような形の塚は、円墳から細長いデザインへの移行期に作られたと考えられている。細長い塚は、埋葬用ではなく、おそらく宗教的儀式などのために作られたものと推測されている。そして動物の形の塚は、高さ2-4フィート(0.6-1.2m)、幅40フィート(12m)、長さ80フィート(24m)が標準的なもので、ものによってはこれを超える大きなものもある。動物の形をした塚は、1,400年前に作られ始め、当時の原住民は狩猟生活を行っており、この地域は夏の狩場であった と推測されている。この動物の形をした塚は、およそ750年前には作られなくなっている。このころには狩猟生活から農耕生活への移行が進み、定住生活が始まっている。動物の形をした塚は、狩猟とおおきく関係しているのかもしれない。他方、一部の塚には火を用いた痕跡が見つかっている。塚は、宗教的儀式の場あるいは一族の狩場であることを示すシンボルであったと推測されている。
エフィジー・マウンズには206の塚が保存されており、そのうち31が動物の形をしている。19世紀ごろまでは、複雑な形をした塚は中近東、中国、欧州などの進んだ文明が使ったものと一般には信じられていた。1880年代のスミソニアンの調査により、これらの塚は原住民の手により作られたものあることが判明した。この地域には19世紀には1万� �上の塚が確認されていたが、その後の開発により現在では1,000に満たない数の塚しか残っていない。
これらの塚の形は、そばから見ても土が盛り上がっているのがわかるだけで、詳しい形は空中から見るのでなければ容易には見てとれない。これをもって、塚は宇宙人と関係あるとする人もいる。何のために作られたのか、その用途は推測するしかなく、謎のままとなっている。
また、この当たりのミシシッピー川は峡谷を形成しており、エフェジー・マウンズからの眺めはとてもよい。おそらく動物の形をした塚を作った原住民もここからミシシッピーを眺めていたに違いない。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)PDFです。
フーバーも立志伝中の人物である。ハーバート・フーバー、後の第31代大統領は、1874年8月10日にアイオワ州のWest Branch(ウェスト・ブランチ)という小さな町にフーバー家の2番目の生まれる。父親のJesse(ジェス)は鍛冶屋で、母親のHulda(ハルダ)は元学校教師であった。クウェーカー教徒の両親のもと、フーバーは勤勉、質素な生活を送った。ジェスの鍛冶屋は成功し、フーバーが5歳の頃には、鍛冶屋を辞め、農業機械を販売する店を構えるようになっていた。ハルダは教会の中心メンバーで宣教活動やチャリティー活動に熱心に取り組んでいた。しかし、幸せは長く続かなかった。フーバーは、1880年に父親ジェスを、1884年に母親ハルダを相次いで亡くし、兄弟はばらばらになり、フーバーは近くに住む叔父に引き取られた。しかし、翌年には子供を亡くしたオレゴンに住む別の叔父に引き取られる。
オレゴンでは、フーバーは、叔父の仕� �(農場経営続いて不動産業)を手伝いながら、夜学で学ぶ。数学が得意であったフーバーは、スタンフォード大学という大学がカリフォルニアにでき、工学部に授業料免除で生徒を受け入れているという話を聞き、彼はエンジニアで身を立てていく決意をする。スタンフォードでの生活は彼の一生を左右したと言っていいだろう。1895年にフーバーは地質学の学位を得て、鉱山技師として身を立てていくこととなる。また、将来の妻Lou Henry(ルー・ヘンリー)ともスタンフォードで出会っている。フーバーは、第1回生としてスタンフォード大学を卒業後、カリフォルニア、コロラドの鉱山で働いた後、Bewick, Moreing and Companyという外資系企業にスカウトされ、オーストラリアに渡り、鉱山の発見や金属の抽出法の開発などで活躍をする。1899年には、中国に鉱山コンサルタントとして派遣される前に、ルーと結婚し、中国でも現地企業を黒字に転換させ、1901年には本社の役員にわずか27歳で登用された。ロンドンを拠点に世界をかけめぐるコンサルタントとして活躍し、1908年には独立して自分の事務所を構えるに至り、億万長者として成功していた。
第一次大戦の勃発によりフーバーの運命は再び変わる。アメリカ総領事館より依頼を受け、12万人のヨーロッパに取り残されたアメリカ人の帰還を助けることとなった。500人のボランティアを組織し、食事、衣類、切符等の手配を行った。ドイツ進軍によりベルギーに食料危機が訪れると、Commitee for Relief in Belgiumの委員長に就任し、10億ドル以上の寄付を集め、1,100万人の戦争被害者の救援活動に邁進した。国内でもFood Administration(食料局)の局長に任命され、戦時下のアメリカの食糧節約運動を支えた。戦後にはAmerican Relief Administration(アメリカ救援局)の局長に任命され、戦後の食糧難を解決するため、ヨーロッパ・中近東3億人に食料配給に取り組んだ。1919年に政府の食糧配給活動が終了しても、ヨーロッパの子供を食糧難から救うため、基金を組織し、さらに1921年まで子供を対象に食糧供給を続けた。また飢饉で苦しむロシアにも援助の手を差し伸べた。これらの人道的活動によりフーバーは一躍ヨーロッパ・アメリカのヒーローとなった。
この活躍が目に留まり、フーバーはハーディング、クーリッジ政権下で商務長官を務める。商務長官としては、産業界との関係の修復、産業の標準化・効率化に力を入れた。1927年のミシシッピー川の大洪水のときには、地元知事からの要請により、復興支援事業のコーディネート役を務め、その人気はうなぎの ぼりとなった。そして1928年の大統領選挙では共和党候補として、民主党候補のAlfred Smith(アルフレッド・スミス)を破り、第31代大統領に就任した。
しかし、フーバーの運命は再び進路を変える。1929年10月29日のニューヨーク市場での株式暴落は世界的な連鎖を呼び、バブルがはじけ、一気に景気が冷え込んだ。いわゆる世界恐慌の始まりである。フーバーは、市場に任せておけば何でも解決するという市場信奉者ではなく、官民協調のパートナーシップ、公共事業とボランティア精神に基づいた救済活動でこの難局を乗り切ろうとしたが、連邦政府による直接の支援には躊躇した。彼は、政府に頼らず、民の力でビジネスも人道的活動も成功させてきており、人々の自助努力の力を高く評価していたためである。 彼はこの信念に反するような連邦政府による直接の支援には反対してきたが、議会との軋轢の中で、過剰生産食物の流通調整や農業補助の拡大や関税の引き上げなどで議会との妥協を余儀なくされていく。フーバー政権では、失業対策も含めた公共事業の拡大、低利の融資をする住宅公庫の設立、州の公共事業や産業界の再生のための復興金融公庫の設立などの対策を講じたが、関税報復引き上げの連鎖、貨幣流通の引き締め、税金の引き上げなど、逆行する政策の影響に、欧州市場の崩壊も加わり、景気がなかなか回復しないため、有権者の苛立ちは募り、中西部の大旱魃も大統領のせいにされるなど、世の中の不都合は全て大統領が悪いためと言われるようになった。再選を目指した1932年の大統領選挙では、民主党のフランクリン・ル ーズベルトに敗れる。
再びフーバーに脚光が当たるのは、第2次大戦後である。トルーマン大統領の依頼を受け、Food Famine Commission(食料飢餓委員会)の委員長となり、欧州の戦後の食糧危機に対応した。また、政府の再編成を検討する委員会の委員長にも任命され、行政改革にも力を注いだ。
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ハーバート・フーバー国立史跡には、自主自立の精神を育んだフーバーの生家、父ジェスの鍛冶屋、母ハルダが活躍したクウェーカー集会所、学校などが再建されている。近くにはフーバー大統領ライブラリーがあるのでそちらもあわせて訪れると、フーバーのひととなりが理解できるでしょう。
スタンフォード大学にあるHoover Institute(フーバー研究所)は、もともとフーバーが$50,000をスタンフォード大学に寄贈し、第1次大戦時に彼が取り組んだ様々な人道的活動に関する書類を保存するライブラリーを設立したのがもととなっており、研究所化する際にも彼が資金集めの先頭に立って努力した。スタンフォード大学には、彼の功績を記念して、Hoover Tower(フーバー・タワー)が建てられており、大学の名所の一つになっている。
(国立公園局のHP)
民主党の大統領候補バラク・オバマ氏は、現在上院議員1期目で、そのワシントンにおける経験のなさを取り上げ、大統領にはまだ早いと主張する人がいる。しかし、アメリカでは必ずしもワシントンでの経験が大統領に有利に働くとは限らない。過去にも下院議員1期だけの経験で大統領に当選し、後に最も偉大な大統領と呼ばれるに至ったイリノイ州出身の人物がいる。その人物の名前は、アブラハム・リンカーン。リンカーンの出自は貧しく、学校もろくに行っていない。しかし、勤勉で独学で法律を学び、弁護士となり、ついには大統領となる立志伝中の人物である。
リンカーンの幼少時代については、ここを、少年時代についてはここ(後日追加)を参照。
21歳のとき家族とともにイリノイに移住したリン カーンは、22歳のときに家を出てイリノイ州のミシシッピー川近郊のNew Salem(ニューセーラム)の町に住み独立するが、そのときには将来大統領になるとは思ってもみなかっただろう。このころは様々な仕事に従事している。商店に勤め、商品をいかだでニューオリンズまで運び、そのとき見た奴隷市が強く心に残り、後のアンチ奴隷制度の考えを抱くようになったとも言われている。23歳のときにWhig(ウィッグ)党から州議会選挙に出るがあえなく落選。その後、原住民との戦い(Black Hawk War:ブラック・ホーク戦争)の際に、民兵に加わり、志願兵団のキャプテンに選挙で選ばれる。しかし、前線に立つことなく帰還。州議会選挙に再び出るもまたしても落選。雑貨屋を始めるも、あえなく倒産。郵便局長になったり、測量技師になったり、自分探しの旅は続く。
1834年になり、3度目の挑戦で州議会に初当選。休会中には法律の勉強に精を出し、1836年、再選後に司法試験にも合格し、法律家としての人生が始まる。州議会議員の座も3選、4選と当選を続けるが、プライベートは順風満帆と言えず、一度別の女性に結婚を断られ、妻となるMary Todd(メリー・トッド)との婚約も一度ご破算になっている。しかし、1841年にはメリーと無事結婚し、居酒屋の2Fに新たな世帯を構えた。翌年長男Robert(ロバート)が生まれ、家が手狭となり、$1,500で2人の結婚式を司った牧師から家を購入した。この家は、引き継いだときには平屋であったが、家族が増える*につれ、建て増しを行っていった。この家には、リンカーンは、大統領に当選し、ワシントンに引っ越すまで17年間住むこととなった。
*リンカーンには、ロバート、Edward(エドワード)、William(ウィリアム)、Thomas(トーマス)の4人の息子が生まれるが、成人となったのは、ロバートのみで、後にロバートの血筋も絶えることから、リンカーンの直系の子孫はいない。ロバートは後に弁護士として成功し、ガーフィールド、アーサー政権下で戦争長官を務め、英国大使、Pullman Palace Car Company(プルマン・パレス車両会社:鉄道車両製造)の会長などを歴任する。
州議会は4期で辞め、合衆国の下院議員に打って出て、見事当選を果たす。ワシントンに移り住むが家族はワシントンに馴染めず、すぐにイリノイに帰郷してしまう。リンカーンはこの間米墨戦争に反対し、DCでの奴隷廃止法案などを提出するが、これらの活動で政敵を多く作ってしまったことと、リンカーン自身も家族と離れての生活を望まなかったことから、1期で下院議員を辞め、弁護士の仕事に戻った。
しばらくして奴隷制度の取り扱いが再び国政上大きな問題となる。アメリカの領土が西に延びるにつれ、新たな州を自由州とするのか奴隷州とするのかは合衆国を二分する大きな問題となった。1820年に、Missouri Compromiseが成立し、それまで奴隷州と自由州が11ずつで同数であったところ、北緯36度30分以北の州は自由州とし、メインを自由州として合衆国に参加させるが、奴隷州と自由州の均衡を保つため、ミズーリー州を奴隷州として合衆国参加を認めた。一旦は収まった問題も、カンサス、ネブラスカを開拓者に開くときに、再び火がついた。1854年、民主党のイリノイ州選出Stephen Douglas(スティーブン・ダグラス)上院議員は、それらの領土の人々が自由州とするか奴隷州とするか投票で決めるという妥協案を出し、Kansas-Nebraska Act(カンサス-ネブラスカ法)に盛り込まれた。この案によれば北緯36度30分以北の州であっても投票結果如何によっては奴隷州となることができるという1820年の妥協を反故にする内容であったので、奴隷制度の西部への拡大に反対する人々の反発を招き、これらの人々は新たにRepublican Party(共和党)を結成し、リンカーンも共和党に参加した。
そしてリンカーンは、1858年の上院議員選挙でカンサス-ネブラスカ法の提案者であるスティーブン・ダグラス上院議員に対抗して出馬し、惜しくも敗れたが、接戦を繰り広げ全国から注目を浴びた。このとき、"A house divided against itself cannot stand. I believe this government cannot endure, permanently half slave and half free."(どんな家でも内輪で争えば成り立っていかない。この国は永久に半分奴隷州で半分自由州では絶えられないと信ずる。)と演説し、奴隷制度が連邦を二分する危険を訴えた。
1860年の大統領選挙で、リンカーンは他の候補者ほど奴隷問題のスタンスが過激でなく(この頃は奴隷制度は悪とは認めつつも廃止までは唱えていなかった)、西部の出身であり、西部の票も期待できるということで共和党の候補者に選ばれた。民主党は、奴隷制度を巡り南北で分裂し、北部はスティーブン・ダグラス上院議員を、南部はJohn Breckinridge(ジョン・ブレッキンリッジ)副大統領をそれぞれ候補者に立てた。さらに連邦の維持を最優先するConstitutional Union Party(アメリカ憲法同盟)も候補者を立て、4つどもえの争いになった。この結果、40%の投票しか得ていないリンカーンが大統領に当選した。リンカーンの反奴隷制度の見解を知る南部諸州は、リンカーン当選と同時に連邦離脱を公言するようになる。
再びワシントンの住人となることが決まったリンカーンは、17年間住み続けた家を貸し出し、ほとんどの家具を売り払った。リンカーンは、ワシントンの出発際に次のように述べている。"I now leave, not knowing when, or whether ever, I may return, with a task before me greater than that which rested upon Washington." (私は今ここを去る。いつ戻るのか、戻るのか戻らないのかもわからず。私の前にはワシントンに降りかかったものよりも大きな課題が待ち受けている。)そしてリンカーンが次にこの家に帰ってくるときに、その言葉の本当の意味が多くの人にこだまとして返ってきた。1865年5月4日、永遠の眠りにつくためであった。リンカーン一家が再びこの家に住むことはなかった。(大統領時代のリンカーンについては、Lincon Memorial(リンカーン記念碑)にて。)
(国立公園局のHP)
ミズーリー州セントルイスは、"Gateway to the West"(西部へのゲートウェイ)と呼ばれる。ルイス&クラーク探検隊の出発地点であり、西部との貿易の中継地点であり、西部開拓に向かう人々の出発地点であった。アメリカの西部発展は、セントルイスで始まった。そのことを記念して、セントルイスには630フィート(192m)のGateway Arch(ゲートウェイ・アーチ)が建てられている。 ゲートウェイ・アーチはアメリカで最も高い記念碑となっている。
ミシシッピー川の河口ニューオリンズからミシシッピー川を経て五大湖に到る地域は、フランスの植民地であった。セントルイスはルイ9世にちなんで名づけられた。7年戦争の結果、ミシシッピー川以西の地域は一時期スペインの領土となるが、1800年にフランスに返還された。ミシシッピー川以西の広大なフランス領の存在は、アメリカの西部発展をさえぎるとともに背後を脅かすものであった。ジェファソン大統領は、フランスがニューオリンズをおさえ、ミシシッピー川の通商を牛耳っていたことに危機感を覚え、フランスにニューオリンズの買収を提案した。ナポレオンは意外な回答を寄こした。ルイジアナ全体を買うのであれば買収に応じるというのだ。ヨー ロッパに勢力を注ぎたいナポレオンにとって、アメリカの植民地経営は邪魔となっていた。1803年、ジェファソンは、1,500万ドルで828,000平方マイル(210万平方キロ)の広大な土地をフランスより手に入れることに成功した。1エーカー当たり3セントというバーゲンであった。
この広大なルイジアナの土地は未知の世界であった。どんな土地でどんな人が住み、どんな動物や植物が生息し、どんな鉱物資源があるのか、明らかではなかった。そこでジェファソンは議会に探検隊を派遣することを提案し、その費用として$2,500の歳出を認められた。ジェファーソンは、自分の秘書であったメリウェザー・ルイス大尉に探検隊の組織を命じ、ルイスは、ウィリアム・クラークと共同で探検隊を率いることを要請する。クラークの階位は少尉であったが、ルイスは彼を大尉と呼び、探検隊の誰もが大尉であると疑わなかったという。ジェファソンは、探検隊にミズーリー川をたどり、太平洋につながる水路を探索するように指示を出した。
1804年の秋から1805年の春にかけ� ��、彼らは装備など準備を整え、セントルイス北のミシシッピー川とミズーリー川の分岐点のイリノイ側に位置するCamp Dubois(キャンプ・デュボア)で訓練を行った。そして1804年5月14日に探検隊はキャンプ・デュボイズから出発した。探検隊のルートは、ここ(PDF)を参照。
探検隊は、ミズーリー川を遡って、現在のカンサス・シティー、オマハなどを順調に通過していった。しかし、8月20日、現在のアイオワ州のSioux City (スー・シティー)の近くでCharles Floyd(チャールズ・フロイド)軍曹を病気で亡くしてしまう。Otoe-Missouria(オトエ・ミズーリー)族、Yankton Sioux(ヤンクトン・スー)族など近隣の原住民とも平穏な関係を樹立し、足を進めるが、Teton Sioux(ティートン・スー)族とは一触即発の危機に到った。一行は、友好関係を築いたMandan(マンダン)族、Hidatsa(ヒダッツア)族の集落の近く、現在のノースダコタ州中央部にFort Mandan(マンダン砦)を築き、越冬することとした。このとき一行に、フランス人毛皮商人Toussaint Charboneau(トゥーサント・シャーバノー)とその妻Shoshone(ショショニ)族のSacagawea(サカガウィア)が加わる。サカガウィアはその冬、男の子を産む。彼らは原住民の風習、言語に通じており、貴重な助けとなったほか、軍人ばかりの探検隊に母子が加わることで、原住民からは敵対的な勢力ではないと判断され、周囲の原住民との緊張関係を和らげるのに貢献した。なお、サカガウィアは、$1硬貨のデザインに使用されている。
春になり、地図、標本などをジェファソンに送り、33名の探検隊は再び西を目指して出発した。ミズーリー川のGreat Falls(グレート・フォールズ)と言われる難所に行き当たり、陸路でこれを乗り越えざるを得ず、1ヶ月も要した。やがて夏にはミズーリー川が3本の川に分かれるところに行き着き、3本の川を当時の大統領、国務長官、財務長官の名前をとって、それぞれジェファーソン川、マディソン川、ギャラティン川と名づけた。一行は、一番北側のジェファーソン川のルートをとり、陸路ロッキーを越え、太平洋への水源を探すが、直ちには見つからなかった。一行は出会ったショショニ族の集落に招かれた。そこでサカガウィアは生き別れとなっていた兄弟との感動の再会を果たす。ショショニ族から馬とガイドの助けを得て、コロンビア川への水源まで到達を果たす。9月に入ると食料が底をつき、馬を食べざるを得ない事態に到る。そこでネズ� ��パース族に救われる。元気を回復した探検隊は、スネーク川を下り、さらにコロンビア川を下り、ついに太平洋に到達する。(太平洋岸付近の状況は、ここを参照。)
1806年3月23日に復路帰還の旅を開始するが、5-6月はモンタナの山々の雪が解けておらず、停止を余儀なくされる。このとき再びネズ・パース族の世話になる。モンタナの山越え後、探検隊は二手に別れ、クラーク組は南路イエローストーン川に沿って東に足を進め、ルイス組は北路ロッキーを短絡経路で越え、往路に沿って東に足を進めた。ルイス組は、途中Piegan Blackfeet(ピエガン・ブラックフィート)族と野営を共にすることとなり、このとき原住民がルイスらの馬や武器を盗もうとしたことから、銃撃戦となり、2名の原住民が死亡した。これが唯一の原住民側との紛争となった。8月11日、2組は合流し、8月14日には再びマンダン族の集落に到達し、サカガウィアらと別れを告げる。後の道のりは、ミズーリー川を下り、ついに出発から2年4ヶ月後の9月23日にセント・ルイスに到着した。探検隊は一躍国民的ヒーローとして迎えられた。その功績により、ルイスはルイジアナ領知事、クラークは原住民担当官兼ルイジアナ領民兵隊の少将に任命される。
こうしてルイス&クラーク探検隊の道のりを振り返ると、原住民の助けがなければ、おそらく探検隊は生きて帰って来れなかっただろう。ルイ ス&クラーク探検隊は原住民の助けのお陰で西部へのルートを切り開くことができたが、皮肉にもそれは同時に原住民にとっては苦難の歴史の始まりとなった。
ここJefferson National Expansion Memorial(ジェファソン国家発展記念碑)は、ゲートウェイ・アーチが有名であるが、ビジターセンターは、ルイス&クラーク探検隊やその後の西部開拓史、当時の西部の様子を振り返ることができる博物館となっている。ゲートウェイ・アーチは上までエレベーターで昇ることができる。時間帯によっては非常に混んでいるので、空いているときを見計らって行こう。
(国立公園局のHP)
ブッシュ大統領はよくイラク戦争を、トルーマン大統領時代の冷戦と比較する。トルーマン大統領は、在籍時には支持率が低く、1951年11月には支持率が23%しかなく、ウォーターゲート事件で辞任したニクソン大統領の最低支持率の24%を下回るものであった。トルーマン大統領は、大統領の任期末期のときにこう言っている。"When history says that my term of office saw the beginning of the Cold War, it will also say that in those eight years we set the course that can win it.(歴史が私の任期中に冷戦が始まったと言えば、私達が冷戦に勝てるようにコースを定めたとも言うだろう。)"その後の歴史は、彼の予言どおりの展開をたどり、ソ連は崩壊し、自由の前に共産主義は敗れた。 東西冷戦という困難に直面し、自由の最終的勝利を信じ、難しい歴史の潮目の舵取りを行ったトルーマン大統領は、現在では歴史家から高く評価されているが、現職中は最も不人気な大統領であったというのは今となっては驚きだ。
トルーマンは、名門に生まれたわけでも、天才であったわけでもない。1884年5月8日、ミズーリー州のLamar(ラマー)で農家のJohn(ジョン)とMatha(マーサ)の2人目の子供として生まれた。彼のミドルネームはSだけで、これは両親の父親の名前がともにSで始まる名前を有していたためと言われている。1890年に家族はIndependence(インディペンデンス)に移り住み、以降インディペンデンスは、トルーマンの故郷となる。この年、6歳の彼は運命的な出会いをする。日曜学校で活発な美しい5歳の女の子に出会� ��。彼女の名前はBess Wallace(ベス・ワラス)。地元の名士の娘であった。後のトルーマン夫人である。彼は少年時代に農場の仕事を手伝い勤労の尊さを学ぶ。
1901年高校を卒業するが、貧しかったトルーマンは進学できず、家計を助けるためカンサス・シティーで事務員や銀行員の仕事を行う。1906年には実家に戻り、再び農業を手伝う。1910年にベスと再会し、プロポーズをするが断られる。トルーマンはあきらめなかった。結婚するには資金が必要だということで、トルーマンはいくつかの投機事業に手を出すが、いずれも失敗に終わる。トルーマンは自分のことを落伍者だと思い始めていた。
第1次大戦が始まり、トルーマンも陸軍に入隊し、大尉してフランス戦線に従事する。彼の部隊は一人の犠牲者も出さず、戦争を終え、帰国後ベスと結婚す� ��。彼女の実家で同居をはじめるが、この家が終生の住処となる。カンサス・シティーで紳士服屋を始めるが、倒産してしまう。
しかし、この後、トルーマンの運命は突如開ける。第1次大戦の戦友の叔父Tom Pendergast(トム・ペンダガスト)がカンサス・シティーの政界のボスで、郡の裁判官の選挙に出ないかと誘われる。ペンダガストの支援を受け、彼は郡の裁判官に当選する。その後再選を重ね、1934年には上院に当選する。2期目の1941年に軍事歳出の浪費を追及し、一躍有名となり、1944年には副大統領に選ばれる。
1945年ルーズベルト大統領の死去に伴い、第33代大統領となった。カリスマにあふれ、任期絶頂の大統領の後を突然受けることになった心境をトルーマンは、「月と星と全ての天体が落ちてきたようだ」と語っている。周囲の期待も低い中、トルーマンは次々に重大な決断を迫られる。広島、長崎への原爆投下、第2次大戦の終結、国連創設、欧州復興(マーシャルプラン)、イスラエル承認、ベルリン封鎖・・・。東西対� �では、トルーマン・ドクトリンを発表し、対共産主義封じ込め政策を推進した。外交上のチャレンジが続く一方で、内政面でも戦中景気が終了し、インフレが勃興し、鉄道全国ストライキが発生するなど困難を極めた。このような試練が続く中、彼は"The buck stops here."(責任は私にある。)と述べ、信念を貫いた。軍隊での白人・黒人の隔離政策を撤廃し、民主党南部諸州の支持を失った。
1948年の再選は不可能と誰もが終わった。トルーマンは、Whistlestop(ウィッスルストップ)キャンペーンと称し、全国鉄道遊説の旅に出て直接選挙民に再選を訴えた。シカゴ・トリビューン氏が早々に対立候補のThomas Dewey(トーマス・デューイー)の当選を報じたが、結果はトルーマンの奇跡勝利であった。2期目も多難は続く。台湾海峡封鎖、朝鮮戦争勃発、暗殺未遂・・・。朝鮮戦争では原爆使用を主張するマッカーサー将軍を解任する。支持率は低迷し、3選出馬断念に追い込まれる。
引退後は、インディペンデンスに戻り、ライブラリーの設立に尽力する。その飾らない人柄は終始変わらなかった。大統領時代も娘のMargaret(マーガレット)の歌手デビューを酷評する新聞紙に抗議の手紙を書いたこともあった。インディペンデンスでは毎日近所の散歩を欠かさなかった。ライブラリー設立後は、そのオフィスに通い、事務員が来るまでの間、電話を自分でとることもたびたびあった。2人の朝食を自分で作ることもあった。
トルーマン大統領は評して、"Uncommon common man"(普通ではない普通の人)と言われている。ここインディペンデンスには、彼の少年時代の家、結婚後死ぬまですみ続けた家、ライブラリーなどトルーマンにちなんだ建物がいくつか点在している。これらを訪れると彼の飾らない人柄に触れることができる。
(国立公園局のHP)
(国立公園局の地図)PDFです。
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